アンナ・ボレーナ Anna Bolena

アンナ・ボレーナ Anna Bolena

昨晩は、大好きなオペラ「アンナ・ボレーナ」の稽古に行った。ドニゼッティ作曲のこのオペラ、音楽的にはキャッチーで早い旋律も多く、ロッシーニによく似た感じがするのだが、そこまで軽くなくて、話もかなり暗い。けれども、例えば「セビリアの理髪師」がコメディとして笑わせることを趣旨として書かれているのに対し、ボレーナはあまりにも深刻で激しくて逆に笑いのツボにはまってしまい、第一幕のフィナーレではもうおかしくて笑いをこらえるのに一苦労する。王妃アンナのテンションが高まるほどに、なぜかおかしさも増す。

アンナ・ネトレプコのボレーナを録画で観た時は、彼女の内面に人の笑いを誘う独特の何かがあるのだろうかと深読みしてしまったが、私が歌っているグループでも同じだった。要は、アンナがすべてを出しきるほど、キャッチーでエキサイティングな音楽にのせて気持ちが高揚し、楽しさも増すのだろう。「やってくれた」、歌舞伎で言えば「待ってました」という気分になる。

私が歌うのは小姓なのか宮廷楽師なのかよく分からないが、メゾよりさらに低いコントラルトのスメトンという役で、”E sgombro il loco”という、王妃への秘かな思いを語った、なかなかおいしいアリアがある。「ファウスト」で青年ジーベルがアリア一曲でさらっていく感じに近いだろうか。だいたいの年格好と職業は「フィガロの結婚」のケルビーノと思えばいい。音域はぐっと低くなるが、装飾音で自由に上がったり下がったりできるので、案外と歌いやすい。

アンナや元恋人のペルシー、国王エンリコ、そして彼の心を奪う侍女ジョヴァンナがドロドロに濃い世界に入っていく中、スメトンは歌も役も軽めで、アンナと深い仲になるわけでもなく、大人の仲間に入りきれない感がある。彼も命がけなのに、少々痛い。それでも、この濃厚な世界を楽しみながら自分はアリアに専念すれば良いので、私としては隠れたもうけ役、とでも言いたくなるのだが、どうだろうか。逆にジョヴァンナは、メゾでありながらやたら高く、そして重めなので、少し苦しそうだ。同じくドニゼッティの「ロベルト・デヴェリュー」にも似たような感じのメゾ、サラだったか、あれも同じで、少なくとも今の私には絶対無理である。

興味深かったのは、ペルシーを歌っているテノールが、別の機会に「セビリアの理髪師」でアルマビーヴァ伯爵を歌っていた際、息を吹き返したように声が伸びやかになっていたことだ。話を聞いてみると、似たような音域でも、やはりペルシーの方が重くてきついのだそうだ。

ちなみにこのオペラは二幕物で、スメトンの出番は第一幕に集中している。第二幕もジョヴァンナが裏切りを告白し、王妃がそれを許す濃いデュエットをはじめ、主要人物の大半が死刑宣告を受けたり、アンナの気がふれてしまったりして、目が離せないはずなのだが、第一幕のフィナーレがあまりに強烈なためか、自分の出番が少ないためか、ついテンションが下がってしまう。

ともかくも、おすすめの作品です。

ヘンゼルとグレーテル Hänsel und Gretel

ヘンゼルとグレーテル Hänsel und Gretel

先月は、ドイツの作曲家フンパーディンクのオペラ「ヘンゼルとグレーテル」でヘンゼルを歌った。原作はグリム童話で、メロディーも耳に馴染みやすく、大人も子供も楽しめるオペラとされている。

冒頭でグレーテルが歌うドイツ民謡 ”Suse, liebe suse” を始め、全編を通じてメロディーがキャッチーなのだが、これは楽勝とぬか喜びしてはいけない。フンパーディンクはワーグナーの弟子だったそうで、オーケストラ(ここでは演奏会形式なのでピアノ伴奏)が恐ろしく込み入っていて、これに合わせて歌うのが至難の業だ。美しくはあるものの、この重厚な音楽を本当に子供が楽しんでいるのだろうか。

hanselandgretel

また、コンサートは1月だったのだが、友人に「それは変だろう。クリスマスにやらないのは」と言われてふと考えた。なぜ欧米では、このオペラがクリスマスの定番となっているのだろう。物語にはクリスマスを匂わせる要素はない。ヘンゼルとグレーテルがお母さんに叱られて苺を摘みに森に出かけたり、そこで妖精に砂をかけられてそのまま眠ってしまったりと、どちらかというと、暖かい季節の設定なのではないか。ジンジャーブレッドが出てくるからなのか、日本人の私には分からない。

ヘンゼルは、モーツァルト作曲「フィガロの結婚」の少年ケルビーノと並んでズボン役(男装する女性歌手の役柄)の定番で、私の声を聞いた人は大抵、「あなたパンツでしょ?」、「ケルビーノでしょ?」と決め込んで永遠にそのままにする。そういうわけでヘンゼルはもう何度も歌っており、「ヘンゼルとグレーテル」というだけあって、これは主役級なのだから、しっかりやらねばと、いつも頑張ってきた。だが、今回、私は重大な事実に気がついた。

ヘンゼルにアリアがないことは知っていた。「ヘンゼルにアリアがないのは不公平だよね」と言われても、「そうかもしれないけれど、これだけ出ずっぱりで歌ってるメインの役なんだから」と気にしていなかった。しかし、コンサートの後で前述の友人に出来を尋ねてみると、どうもはっきりと返事をしない。よくよく聞いてみると、「君はちょこちょこ歌って、長い時間歌わないから、声がどうとかはよく分からない」と言うではないか。あんた何言ってんのよ、ヘンゼルよ、主役よ、と言いながらふと再考した。

ヘンゼルにアリアがないのは良いとしても、問題なのは、ヘンゼルにだけアリアがないということなのではないか。苺を探しに出かけた(退場した)後、お父さんとお母さんがああじゃない、こうじゃないと、それぞれ随分長いこと歌っている。その後、ザントマン(眠りの精)と露の精がアリアを歌った後、魔女の独壇場となる。ああ、これだけ頑張っていたのに、ソロがないのは私だけだったとは。これは随分と不公平ではないか。ピエロではないか。私は愕然とした。

とは言え、無事に終わったからもう大丈夫。デュエットは楽しかったし。次に進もう。

皇帝ティートの慈悲 La clemenza di Tito

皇帝ティートの慈悲 La clemenza di Tito

今年の9月には、モーツァルトのオペラ「皇帝ティートの慈悲」でアンニオを歌った。メゾは皇帝の友人セストと、そのセストの友人アンニオの二役があり、セストの方が大役だが、私はアンニオとセストの妹セルヴィリアの二重唱「ああ、昔の愛情に免じて」(”Ah, perdona al primo affetto”)がどうしても歌いたくてずっと思いつめていたし、アリア「ティートのもとに戻りたまえ」(”Torna di Tito a lato”)も、「フィガロの結婚」はケルビーノの「恋とはどんなもの」(”Voi che sapete”)くらいの音域で注目していたため、この二曲が歌えて嬉しかった。

とは言え、勉強を始めてみると、まず登場人物があまりにもよく喋る、すなわちレチタティーヴォがあまりにも多いことに閉口した。私が歌っているグループでは、スコアを全部通しで歌うのが基本なのだが、今回は極端に台詞が多いため、珍しく一部が割愛された。訳が分からなくなる直前まで削っても、それでもまだ多い。特にアンニオは周囲に状況を説明するという役割が強く、不自然に喋りまくる。また、二つあるアリアも旋律は美しいのだが、歌詞は皇帝に忠誠を示せとセストを諭したり、皇帝にセストの助命を嘆願したりと、どうにも間にいるだけの人という感が拭えず、感情移入しにくい。唯一、恋人セルヴィリアへの愛を歌った珠玉の二重唱でさえも、彼女が皇帝の妃に選ばれるなり、皇帝への忠誠心、セストへの友情からあっさり身を引こうとするなど、何だか考え方が古くさい。愛するヴィテッリアのため、皇帝の暗殺を企て、宮殿に火を放つセストの過激さと比べ(これはこれでどうかと思うが)随分および腰ではないか。

だが、台詞が長くて一番気の毒なのはテノールの皇帝ティートだろう。誰を妃にするか、親友であるセストが本当に自分を裏切ったのか、その裏切りを許すべきか等、心中のあらゆる葛藤をレチタティーヴォで延々と語り続ける。この部分はどうにも割愛できない。アリアも長い割に今一つ報われない感がある。

ともかく、このオペラに興味があるメゾソプラノの人のために書いておくと、一見しただけでは分かりにくいが、アンニオはセストよりも高い。セストとの小二重唱やコーラス、また前述のアリアは低めなのだが、もう一つのアリア「あなたは裏切られた」(”Tu fosti tradito”)は、何が起きたのかと思うほど高くて歌いにくい。前述のケルビーノよりずっと高い。これが愛や憎しみを歌っているならまだしも、「皇帝は裏切られた」と高音で頑張り続けるのも何かやるせない気持ちになる。逆にセストは、あの有名で派手なアリア「私は行く、だが愛しい人よ」(”Parto, ma tu, ben mio”)に怖気づいてしまいそうだが、あれは意外に歌いやすそうだ。その辺に留意していただければと思う。

しかし、音域という点でより気の毒なのは、セストを誘惑しつつ皇妃の座をねらう悪女ヴィテッリアではないか。美しい高音で気性の激しいディーバぶりを発揮しながら、アリア「もはや花の絆は結ばれぬ」(“Non piu di fiori”)では、ソプラノにはどうにも不可能と思われるLow-Gまで何度も下がって、拷問そのものだ。急に瀕死のカエルみたいな声になってしまって、代われるものなら代わってあげたいが、そうはいかない。階段を上るように、橋を渡るように音符を連ねた歌手思いのプッチーニとは対照的に、声種を考えて曲を書くような気遣いはモーツァルトにはなかったようだ。

ヘンデルのオペラ Handel’s Operas

ヘンデルのオペラ Handel’s Operas

ヘンデルのオペラは私の声種に割と合っているようで、「アリオダンテ」は主役とポリネッソ、「アルチーナ」ではルッジェーロ、また「リナルド」はゴッフレードやエウスタツィオと、これまでいくつか学ぶ機会があった。同じヘンデルのメゾでも当然、音域はそれぞれ異なり、現在の私の声に一番合うのはリナルド、または「セルセ」のアルサメネ辺りではないかと思う。まだ歌っていないから、一縷の望みを託しているだけかもしれないが。

個人的には、アリオダンテは素晴らしいがやや高く(そして長い)、ルッジェーロとリナルド、アルサメネはちょうど良い感じ、一方でゴッフレードはやや低めで少々苦しいが、ポリネッソとエウスタツィオはさらに下がるので却って歌いやすくなる。ところが、「セルセ」のアマストレや「アルチーナ」のブラダマンテは低すぎるのか、突如、殺人的に歌いにくくなる。また、ソプラノ役だがメゾが歌うことも多いセルセは逆に高すぎて、これも知りたくない、という心境になる。まだ声も技術も定まっていないせいだとは思うが、自分の声に合う役を探すのは本当に難しい。

ところで、ヘンデルのオペラについて、以前から気になっていることがある。

ここ数年、私がオペラを勉強しているグループでは、ひとつの役を2、3人が交代で歌うのだが、ヘンデルのオペラに関しては、リハーサルやコンサートで、一部のソプラノ役を歌う歌手の声の響きが同化していくと言ったら良いのか、役が歌手の個性を超えて、歌手を取り込んでしまうかのように感じられた。歌手はミディアムに徹し、それも意図的というよりは自動的にそうなってしまうような。私の考え過ぎか、勘違いかもしれない。だが、誰が歌っても同じに聞こえる、というのとは違うように思う。「アリオダンテ」では侍女ダリンダ、「アルチーナ」では主役を歌うソプラノが、次々とあちらの世界に行ってしまった。そして、「リナルド」の魔女アルミーダはなぜかその傾向が特に強く、「ちょっとお嬢さん、憑りつかれてますよ!」とでも言ってあげたくなるような状況が頻発した。当然、毎回ではないし、全員ではないが、その度に「ああまた」という気分にさせられる。

アルミーダを始め、これらの役を歌う人達は大抵ものすごく上手なので、優れた技術とともにある意味、憑依する能力も高いのかもしれない。以前、神社で舞を踊っているという女性と少し話をした際、神降ろしがどうとか言っていたのを思い出した。オペラは娯楽のためのものだが、ヘンデルの音楽にそういう状況を誘発する何かがあるのか。誰か詳しい人にいつか意見を聞いてみたい。そんな人、いないかもしれないけれど。

イル・タバーロ(外套) Il tabarro

イル・タバーロ(外套) Il tabarro

昨年の夏には、プッチーニの一幕物オペラ三部作 (“Il trittico”) のひとつ、「イル・タバーロ(外套)」で猫好きのおばさんフルゴラを歌った。三部作の中では、アリア”O mio babbino caro” (「私のお父さん」)で知られる「ジャンニ・スキッキ」が最も有名。もうひとつの「修道女アンジェリカ」は、一幕でちょい役の修道女がわんさか登場するためか、音大等で上演されることが多いように思う。

さて、このフルゴラ、勉強し始めてみると、非常に歌いやすく、自分の声にとてもよく合っていて驚いた。私の苦手な音域に触れずにぐっと下がったり、持ち上げてもらうように上がったり。そう頻繁にあることではない。同じくプッチーニのスズキも合っていたが、「蝶々夫人」でスズキを歌いたいメゾに比べ、「外套」でフルゴラを歌いたいメゾの幅はぐっと狭まるはず。そして、スズキにはアリアがないが、フルゴラのアリアは見せ所満載だ。「セビリアの理髪師」のベルタも見せ場はあるものの、一曲歌うのに2時間近く待つのに対し、これは一時間近くでスピーディーに物語が展開するので、忙しい私には大変ありがたい。何だか得した気分だった。

リハーサルが始まると、冒頭から繰り返し流れる物憂いテーマに始まり、心を揺さぶる波の音、船乗りの掛け声にセーヌ河畔の流しやお針子さんの黄色い声など、背景の音楽の美しさにこれまた感激した。ストーリーも、はしけ船の老船長ミケーレ(と言ってもまだ50歳!)が若い妻ジョルジェッタに愛されなくなったことを嘆き、妻は妻で行き場のない思いに苦しみ、と、リハーサルの度に涙が出てしまう。本当です。

船乗りタルパの妻であるフルゴラは、ガラクタ収集癖のあるおばさんで、夫と猫をこよなく愛している。やはりたったの50歳なのに、タルパとは「じいさん」、「ばあさん」と呼び合い、早く船の生活を終えて、夫と猫と小さな家で死を迎えたいと、暗い夢を語っている。

設定は1910年のパリ。この時代と場所において、50歳という年齢はどういう意味を持っていたのだろう。江戸時代なら平均寿命がそれくらいだったらしいから、「もういつどうなっても。。」というのも分かる。だが、それにしては、ミケーレはジョルジェッタの浮気相手を刺し殺すし、フルゴラも夫にマッサージしてあげたことを官能的な手つきで嬉々として語るなど、どちらも案外元気である。

録画を見ると、フルゴラはたいてい狂った老女として演じられているようだが、私にはそうは思えなかった。夫と猫を愛し、性的な興味もあるようだし、常軌を逸した言動からふと正気に戻り、深みのある発言もする。エキセントリックではあるものの、この揺れの大きさ、孤独感も含め、現代の中年女性と何ら変わらないのではないか。

2007年には、ブルックリンを拠点とするVertical Players Repertoryが廃船となったタンカーをステージにこのオペラを上演した。何というアイデア!いつか再演してくれないものか。。。

セビリアの理髪師 Il barbiere di Siviglia

セビリアの理髪師 Il barbiere di Siviglia

2014年の終わりには、ロッシーニのオペラ「セビリアの理髪師」で女中のベルタを歌った。翌月に「蝶々夫人」でスズキを歌うことになっており、女中役が続くが、「ベルタはおいしいよ」「もうけ役だよ」とも言われていたので、挑戦してみることにした。

ベルタはメゾソプラノと書かれていることもあるが、私にはソプラノ役としか思えず、アリアはA、コーラスではCまで上がり、かなり音域が高かった。メゾでもCやDまで出すことは頻繁にあるものの、高音でホールドせず、シュッと上がってはサッと自分の陣地まで下がる感じで、少々違いがある。逆に、メゾ役のロジーナをソプラノが歌うこともあり、その場合、アリアはソプラノ版を使い、コーラスはロジーナがソプラノ、ベルタがメゾと、入れ替えて歌うことになる。

「セビリアの理髪師」は、あまりにも有名な前奏曲に、これまた有名なフィガロのアリア”Largo al factotum”(「町の何でも屋に」)、さらにロジーナの”Una voce poo fa”(「今の歌声は」)と、オペラに馴染みがない人にも聞き覚えのあるメロディーが目白押しで(聞けば分かります)、娯楽的要素が非常に高い。また、ストーリーは極めて軽く、ペラッペラに薄いため、このオペラを観劇する際には、事前にあらすじをよく読み、「笑いどころ」を押さえておくのが賢明かもしれない。オペラも歌舞伎や落語と同じで笑う箇所が決まっており、本当に可笑しいかどうかに関係なく、「ほっほっ」と小さく笑うのが通のたしなみのようだ。

バルトロ邸の召使、ベルタは風邪をひいているのか、やたらとくしゃみをする。一方、同じく召使のアンブロージョはあくびばかりしており、この召使コンビがくしゃみとあくびの掛け合いをする。アメリカのコメディ、「三ばか大将」とか、落語の間とか、そういうセンスが求められる。くしゃみやあくびには旋律がないため、音楽に合わせてタイミング良くくしゃみをするのは大変難しかった。このあくびとくしゃみの場面は省略されることが多いそうで、残念だ。(後記:このくしゃみとあくびはフィガロの仕業によるものらしい。)

ベルタは酸いも甘いもかみ分けたおばさんだが、滑稽な中にも孤独やしんみり感を垣間見せるところもあり、そこが「儲け役」と言われる所以だろうか。

物語としては、「セビリアの理髪師」の続編がモーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」となる。登場人物が重複しているため、あれ?と思った向きもあるだろう。アルマヴィーヴァ伯爵にいろいろと入れ知恵をする理髪師(何でも屋)フィガロが後に結婚する話が「フィガロの結婚」である。周知のこととは思うけれど。オペラを語る上で、どちらも決して外せない作品だ。

蝶々夫人(続き) Madama Butterfly (2)

蝶々夫人(続き) Madama Butterfly (2)

私の場合、オペラの役をどうやって勉強するかというと、まずはリンカーンセンターにある舞台芸術専門の図書館に駆け込み、台本を探して翻訳と発音を確認する。メトロポリタン歌劇場で発音コーチを務め、自身もテノール歌手だったニコ・カステルが、あらゆる言語のオペラの台本を片っ端から発音記号で表記して逐語訳も併記した何ともありがたい台本全集のようなものがあり、これにならうのが通例のようだ。少なくとも、私の周囲では。(後記:ニコ・カステルは残念なことに、2015年5月に死去した。)

今回も例に漏れずそうしたのだが、スズキの台詞には悩んでしまった。スズキは最初の登場場面で結婚仲介人のゴロー(ファーストネームだったり、ラストネームだったり、ごちゃごちゃである)に、「旦那さまはよく笑う方かしら。笑いは(人生の)花ですもの。オクナマは(何たらかんたらと)おっしゃいましたわ」(拙訳)と一気にペラペラまくし立てるのだが、私はこのオクナマでまず躓いた。オクナマって誰だ?前述のニコ・カステルの本には、”il savio Ocunama (the sage Okunama)”とある。インターネットには「賢人オクナマ」、「賢いオクナマ」、「聖人オクナマ」などと出てもいるが、本当にそうだろうか。。どこの国の人なのだ。。。これについては、何か月も悩んだ末、「賢い奥様」なんではないかという結果に達したが、どうだろう。

第二幕はスズキが仏壇に手を合わせ、「イザナギ、イザナミ、サルンダシーコ(猿田彦)」と祈る場面で始まる。クラッとはくるものの、取りあえずは解る。問題はその次だ。「そして、テンショウダイ」スズキは祈り続ける。テンショウダイって何だ?お寺の名前?調べても調べても答えは見つからない。何か月も悩んだが、結局、答えはニコの本に載っていた。さすがに手掛かりは見つからないだろうと、脚注までは読んでいなかったのだ。それによると、どうやらアマテラスのことらしい。天照大神。テンショウダイジンとまで言ってくれれば分かったのに!ああ苦労した。それにしても、恐るべし、ニコ・カステル。

登場人物の名前も混沌としている。ちょっと悩んでしまったのは、蝶々さんの叔父のボンゼ。東洋的な響きはするが、いったい。。。これは何か月も費やすことなく、お坊さんであることから、ボンゼ、ボンゾ、ボウズらしいことが判明した。あと、ヤクシデという登場人物もいるが、この人の出番がどこだったかもう思い出せないので、またの機会にしよう。薬師寺か?

こちらのオペラ関係者が、この女中のスズキを「ツッヅーキ」ときばって呼ぶのも、ニコの台本に[su’ddzuki]と書いてあるからなのだろうか。自動車のSuzukiはすっきりスズキと言うのに。そうだとすれば、何という影響力だろう。

最後にもう一つ、蝶々さんの名前は、スペイン語ではとんでもない意味になるそうなので、スペイン語圏の人たちの前ではお気をつけあそばせ。(さらに続く)