ヘンゼルとグレーテル Hänsel und Gretel

ヘンゼルとグレーテル Hänsel und Gretel

先月は、ドイツの作曲家フンパーディンクのオペラ「ヘンゼルとグレーテル」でヘンゼルを歌った。原作はグリム童話で、メロディーも耳に馴染みやすく、大人も子供も楽しめるオペラとされている。

冒頭でグレーテルが歌うドイツ民謡 ”Suse, liebe suse” を始め、全編を通じてメロディーがキャッチーなのだが、これは楽勝とぬか喜びしてはいけない。フンパーディンクはワーグナーの弟子だったそうで、オーケストラ(ここでは演奏会形式なのでピアノ伴奏)が恐ろしく込み入っていて、これに合わせて歌うのが至難の業だ。美しくはあるものの、この重厚な音楽を本当に子供が楽しんでいるのだろうか。

hanselandgretel

また、コンサートは1月だったのだが、友人に「それは変だろう。クリスマスにやらないのは」と言われてふと考えた。なぜ欧米では、このオペラがクリスマスの定番となっているのだろう。物語にはクリスマスを匂わせる要素はない。ヘンゼルとグレーテルがお母さんに叱られて苺を摘みに森に出かけたり、そこで妖精に砂をかけられてそのまま眠ってしまったりと、どちらかというと、暖かい季節の設定なのではないか。ジンジャーブレッドが出てくるからなのか、日本人の私には分からない。

ヘンゼルは、モーツァルト作曲「フィガロの結婚」の少年ケルビーノと並んでズボン役(男装する女性歌手の役柄)の定番で、私の声を聞いた人は大抵、「あなたパンツでしょ?」、「ケルビーノでしょ?」と決め込んで永遠にそのままにする。そういうわけでヘンゼルはもう何度も歌っており、「ヘンゼルとグレーテル」というだけあって、これは主役級なのだから、しっかりやらねばと、いつも頑張ってきた。だが、今回、私は重大な事実に気がついた。

ヘンゼルにアリアがないことは知っていた。「ヘンゼルにアリアがないのは不公平だよね」と言われても、「そうかもしれないけれど、これだけ出ずっぱりで歌ってるメインの役なんだから」と気にしていなかった。しかし、コンサートの後で前述の友人に出来を尋ねてみると、どうもはっきりと返事をしない。よくよく聞いてみると、「君はちょこちょこ歌って、長い時間歌わないから、声がどうとかはよく分からない」と言うではないか。あんた何言ってんのよ、ヘンゼルよ、主役よ、と言いながらふと再考した。

ヘンゼルにアリアがないのは良いとしても、問題なのは、ヘンゼルにだけアリアがないということなのではないか。苺を探しに出かけた(退場した)後、お父さんとお母さんがああじゃない、こうじゃないと、それぞれ随分長いこと歌っている。その後、ザントマン(眠りの精)と露の精がアリアを歌った後、魔女の独壇場となる。ああ、これだけ頑張っていたのに、ソロがないのは私だけだったとは。これは随分と不公平ではないか。ピエロではないか。私は愕然とした。

とは言え、無事に終わったからもう大丈夫。デュエットは楽しかったし。次に進もう。

皇帝ティートの慈悲 La clemenza di Tito

皇帝ティートの慈悲 La clemenza di Tito

今年の9月には、モーツァルトのオペラ「皇帝ティートの慈悲」でアンニオを歌った。メゾは皇帝の友人セストと、そのセストの友人アンニオの二役があり、セストの方が大役だが、私はアンニオとセストの妹セルヴィリアの二重唱「ああ、昔の愛情に免じて」(”Ah, perdona al primo affetto”)がどうしても歌いたくてずっと思いつめていたし、アリア「ティートのもとに戻りたまえ」(”Torna di Tito a lato”)も、「フィガロの結婚」はケルビーノの「恋とはどんなもの」(”Voi che sapete”)くらいの音域で注目していたため、この二曲が歌えて嬉しかった。

とは言え、勉強を始めてみると、まず登場人物があまりにもよく喋る、すなわちレチタティーヴォがあまりにも多いことに閉口した。私が歌っているグループでは、スコアを全部通しで歌うのが基本なのだが、今回は極端に台詞が多いため、珍しく一部が割愛された。訳が分からなくなる直前まで削っても、それでもまだ多い。特にアンニオは周囲に状況を説明するという役割が強く、不自然に喋りまくる。また、二つあるアリアも旋律は美しいのだが、歌詞は皇帝に忠誠を示せとセストを諭したり、皇帝にセストの助命を嘆願したりと、どうにも間にいるだけの人という感が拭えず、感情移入しにくい。唯一、恋人セルヴィリアへの愛を歌った珠玉の二重唱でさえも、彼女が皇帝の妃に選ばれるなり、皇帝への忠誠心、セストへの友情からあっさり身を引こうとするなど、何だか考え方が古くさい。愛するヴィテッリアのため、皇帝の暗殺を企て、宮殿に火を放つセストの過激さと比べ(これはこれでどうかと思うが)随分および腰ではないか。

だが、台詞が長くて一番気の毒なのはテノールの皇帝ティートだろう。誰を妃にするか、親友であるセストが本当に自分を裏切ったのか、その裏切りを許すべきか等、心中のあらゆる葛藤をレチタティーヴォで延々と語り続ける。この部分はどうにも割愛できない。アリアも長い割に今一つ報われない感がある。

ともかく、このオペラに興味があるメゾソプラノの人のために書いておくと、一見しただけでは分かりにくいが、アンニオはセストよりも高い。セストとの小二重唱やコーラス、また前述のアリアは低めなのだが、もう一つのアリア「あなたは裏切られた」(”Tu fosti tradito”)は、何が起きたのかと思うほど高くて歌いにくい。前述のケルビーノよりずっと高い。これが愛や憎しみを歌っているならまだしも、「皇帝は裏切られた」と高音で頑張り続けるのも何かやるせない気持ちになる。逆にセストは、あの有名で派手なアリア「私は行く、だが愛しい人よ」(”Parto, ma tu, ben mio”)に怖気づいてしまいそうだが、あれは意外に歌いやすそうだ。その辺に留意していただければと思う。

しかし、音域という点でより気の毒なのは、セストを誘惑しつつ皇妃の座をねらう悪女ヴィテッリアではないか。美しい高音で気性の激しいディーバぶりを発揮しながら、アリア「もはや花の絆は結ばれぬ」(“Non piu di fiori”)では、ソプラノにはどうにも不可能と思われるLow-Gまで何度も下がって、拷問そのものだ。急に瀕死のカエルみたいな声になってしまって、代われるものなら代わってあげたいが、そうはいかない。階段を上るように、橋を渡るように音符を連ねた歌手思いのプッチーニとは対照的に、声種を考えて曲を書くような気遣いはモーツァルトにはなかったようだ。