“Lullaby” from “The Consul” Gian Carlo Menotti オペラ「領事」より「子守歌」ジャン・カルロ・メノッティ

“Lullaby” from “The Consul” Gian Carlo Menotti オペラ「領事」より「子守歌」ジャン・カルロ・メノッティ

Here is the link of “Lullaby” from the Pulitzer winning opera “The Consul” by Gian Carlo Menotti (1950). The mother of a political activist, John Sorel, sings a lullaby to her dying baby grandson. Hope you enjoy the haunting melody and beautiful poetry.

ジャン・カルロ・メノッティのオペラ「領事」(1950年)より、政治活動家ジョン・ソレルの母親が瀕死の孫に歌う子守歌です。一度聴くとメロディーと詩が頭から離れなくなります!

“Oración de las madres que tienen a sus hijos en brazos” Manuel de Falla 「幼子を胸に抱く母たちの祈り」マヌエル・デ・ファリャ

“Oración de las madres que tienen a sus hijos en brazos” Manuel de Falla 「幼子を胸に抱く母たちの祈り」マヌエル・デ・ファリャ

“Oración de las madres que tienen a sus hijos en los brazos” Manuel de Falla 「幼子を胸に抱く母たちの祈り」

This is my recent recording of Manuel de Falla’s art song, “Prayer of the mothers embracing their children”. I sang in D minor, and I think many mezzos can comfortably sing in this key. I am planning to add subtitles to the video soon. Enjoy!

先月、マヌエル・ド・ファリャの「幼子を胸に抱く母たちの祈り」を録音しました。日本語訳が出ているか分かりませんが、「どうかこの子が兵隊になりませんように。そうしたらこの子は連れていかれ、殺されてしまう。死ぬ間際には「お母さん」と言うでしょう。そして、私にはその日も時間も知らされない。」という内容です。ソプラノのキー(D minor)で歌いましたが、Fまでなのでメゾでも十分歌えると思います。近いうちに字幕を付ける予定です。

 

皇帝ティートの慈悲 La clemenza di Tito

皇帝ティートの慈悲 La clemenza di Tito

今年の9月には、モーツァルトのオペラ「皇帝ティートの慈悲」でアンニオを歌った。メゾは皇帝の友人セストと、そのセストの友人アンニオの二役があり、セストの方が大役だが、私はアンニオとセストの妹セルヴィリアの二重唱「ああ、昔の愛情に免じて」(”Ah, perdona al primo affetto”)がどうしても歌いたくてずっと思いつめていたし、アリア「ティートのもとに戻りたまえ」(”Torna di Tito a lato”)も、「フィガロの結婚」はケルビーノの「恋とはどんなもの」(”Voi che sapete”)くらいの音域で注目していたため、この二曲が歌えて嬉しかった。

とは言え、勉強を始めてみると、まず登場人物があまりにもよく喋る、すなわちレチタティーヴォがあまりにも多いことに閉口した。私が歌っているグループでは、スコアを全部通しで歌うのが基本なのだが、今回は極端に台詞が多いため、珍しく一部が割愛された。訳が分からなくなる直前まで削っても、それでもまだ多い。特にアンニオは周囲に状況を説明するという役割が強く、不自然に喋りまくる。また、二つあるアリアも旋律は美しいのだが、歌詞は皇帝に忠誠を示せとセストを諭したり、皇帝にセストの助命を嘆願したりと、どうにも間にいるだけの人という感が拭えず、感情移入しにくい。唯一、恋人セルヴィリアへの愛を歌った珠玉の二重唱でさえも、彼女が皇帝の妃に選ばれるなり、皇帝への忠誠心、セストへの友情からあっさり身を引こうとするなど、何だか考え方が古くさい。愛するヴィテッリアのため、皇帝の暗殺を企て、宮殿に火を放つセストの過激さと比べ(これはこれでどうかと思うが)随分および腰ではないか。

だが、台詞が長くて一番気の毒なのはテノールの皇帝ティートだろう。誰を妃にするか、親友であるセストが本当に自分を裏切ったのか、その裏切りを許すべきか等、心中のあらゆる葛藤をレチタティーヴォで延々と語り続ける。この部分はどうにも割愛できない。アリアも長い割に今一つ報われない感がある。

ともかく、このオペラに興味があるメゾソプラノの人のために書いておくと、一見しただけでは分かりにくいが、アンニオはセストよりも高い。セストとの小二重唱やコーラス、また前述のアリアは低めなのだが、もう一つのアリア「あなたは裏切られた」(”Tu fosti tradito”)は、何が起きたのかと思うほど高くて歌いにくい。前述のケルビーノよりずっと高い。これが愛や憎しみを歌っているならまだしも、「皇帝は裏切られた」と高音で頑張り続けるのも何かやるせない気持ちになる。逆にセストは、あの有名で派手なアリア「私は行く、だが愛しい人よ」(”Parto, ma tu, ben mio”)に怖気づいてしまいそうだが、三連符は徐々に上がっていくので高音は案外出しやすい。その辺に留意していただければと思う。

しかし、音域という点でより気の毒なのは、セストを誘惑しつつ皇妃の座をねらう悪女ヴィテッリアではないか。美しい高音で気性の激しいディーバぶりを発揮しながら、アリア「もはや花の絆は結ばれぬ」(“Non piu di fiori”)では、ソプラノにはどうにも不可能と思われるLow-Gまで何度も下がって、拷問そのものだ。急に瀕死のカエルみたいな声になってしまって、代われるものなら代わってあげたいが、そうはいかない。階段を上るように、橋を渡るように音符を連ねた歌手思いのプッチーニとは対照的に、声種を考えて曲を書くような気遣いはモーツァルトにはなかったようだ。