Passion through Performance @ Carnegie Weil Recital Hall 2019

Passion through Performance @ Carnegie Weil Recital Hall 2019

Back stage at Carnegie Weil Recital Hall on February 2. I know it is always a backstage photo, but photo or video is prohibited at Carnegie without permission.. I had fun singing “Ma rendi pur content” by Bellini and “Una voce poco fa” from “Il Barbiere di Siviglia” by Rossini. ❤ “Una voce” is certainly a crowd-pleaser!

カーネギーホールでは写真やビデオを撮ることが難しいので今回も舞台裏で記念撮影。この細い廊下を進んで右手からステージに入ります。ロジーナのアリアはやはりお客さん受けが良いですね~。

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皇帝ティートの慈悲 La clemenza di Tito

皇帝ティートの慈悲 La clemenza di Tito

今年の9月には、モーツァルトのオペラ「皇帝ティートの慈悲」でアンニオを歌った。メゾは皇帝の友人セストと、そのセストの友人アンニオの二役があり、セストの方が大役だが、私はアンニオとセストの妹セルヴィリアの二重唱「ああ、昔の愛情に免じて」(”Ah, perdona al primo affetto”)がどうしても歌いたくてずっと思いつめていたし、アリア「ティートのもとに戻りたまえ」(”Torna di Tito a lato”)も、「フィガロの結婚」はケルビーノの「恋とはどんなもの」(”Voi che sapete”)くらいの音域で注目していたため、この二曲が歌えて嬉しかった。

とは言え、勉強を始めてみると、まず登場人物があまりにもよく喋る、すなわちレチタティーヴォがあまりにも多いことに閉口した。私が歌っているグループでは、スコアを全部通しで歌うのが基本なのだが、今回は極端に台詞が多いため、珍しく一部が割愛された。訳が分からなくなる直前まで削っても、それでもまだ多い。特にアンニオは周囲に状況を説明するという役割が強く、不自然に喋りまくる。また、二つあるアリアも旋律は美しいのだが、歌詞は皇帝に忠誠を示せとセストを諭したり、皇帝にセストの助命を嘆願したりと、どうにも間にいるだけの人という感が拭えず、感情移入しにくい。唯一、恋人セルヴィリアへの愛を歌った珠玉の二重唱でさえも、彼女が皇帝の妃に選ばれるなり、皇帝への忠誠心、セストへの友情からあっさり身を引こうとするなど、何だか考え方が古くさい。愛するヴィテッリアのため、皇帝の暗殺を企て、宮殿に火を放つセストの過激さと比べ(これはこれでどうかと思うが)随分および腰ではないか。

だが、台詞が長くて一番気の毒なのはテノールの皇帝ティートだろう。誰を妃にするか、親友であるセストが本当に自分を裏切ったのか、その裏切りを許すべきか等、心中のあらゆる葛藤をレチタティーヴォで延々と語り続ける。この部分はどうにも割愛できない。アリアも長い割に今一つ報われない感がある。

ともかく、このオペラに興味があるメゾソプラノの人のために書いておくと、一見しただけでは分かりにくいが、アンニオはセストよりも高い。セストとの小二重唱やコーラス、また前述のアリアは低めなのだが、もう一つのアリア「あなたは裏切られた」(”Tu fosti tradito”)は、何が起きたのかと思うほど高くて歌いにくい。前述のケルビーノよりずっと高い。これが愛や憎しみを歌っているならまだしも、「皇帝は裏切られた」と高音で頑張り続けるのも何かやるせない気持ちになる。逆にセストは、あの有名で派手なアリア「私は行く、だが愛しい人よ」(”Parto, ma tu, ben mio”)に怖気づいてしまいそうだが、あれは意外に歌いやすそうだ。その辺に留意していただければと思う。

しかし、音域という点でより気の毒なのは、セストを誘惑しつつ皇妃の座をねらう悪女ヴィテッリアではないか。美しい高音で気性の激しいディーバぶりを発揮しながら、アリア「もはや花の絆は結ばれぬ」(“Non piu di fiori”)では、ソプラノにはどうにも不可能と思われるLow-Gまで何度も下がって、拷問そのものだ。急に瀕死のカエルみたいな声になってしまって、代われるものなら代わってあげたいが、そうはいかない。階段を上るように、橋を渡るように音符を連ねた歌手思いのプッチーニとは対照的に、声種を考えて曲を書くような気遣いはモーツァルトにはなかったようだ。

ヘンデルのオペラ Handel’s Operas

ヘンデルのオペラ Handel’s Operas

ヘンデルのオペラは私の声種に割と合っているようで、「アリオダンテ」は主役とポリネッソ、「アルチーナ」ではルッジェーロ、また「リナルド」はゴッフレードやエウスタツィオと、これまでいくつか学ぶ機会があった。同じヘンデルのメゾでも当然、音域はそれぞれ異なり、現在の私の声に一番合うのはリナルド、または「セルセ」のアルサメネ辺りではないかと思う。まだ歌っていないから、一縷の望みを託しているだけかもしれないが。

個人的には、アリオダンテは素晴らしいがやや高く(そして長い)、ルッジェーロとリナルド、アルサメネはちょうど良い感じ、一方でゴッフレードはやや低めで少々苦しいが、ポリネッソとエウスタツィオはさらに下がるので却って歌いやすくなる。ところが、「セルセ」のアマストレや「アルチーナ」のブラダマンテは低すぎるのか、突如、殺人的に歌いにくくなる。また、ソプラノ役だがメゾが歌うことも多いセルセは逆に高すぎて、これも知りたくない、という心境になる。まだ声も技術も定まっていないせいだとは思うが、自分の声に合う役を探すのは本当に難しい。

ところで、ヘンデルのオペラについて、以前から気になっていることがある。

ここ数年、私がオペラを勉強しているグループでは、ひとつの役を2、3人が交代で歌うのだが、ヘンデルのオペラに関しては、リハーサルやコンサートで、一部のソプラノ役を歌う歌手の声の響きが同化していくと言ったら良いのか、役が歌手の個性を超えて、歌手を取り込んでしまうかのように感じられた。歌手はミディアムに徹し、それも意図的というよりは自動的にそうなってしまうような。私の考え過ぎか、勘違いかもしれない。だが、誰が歌っても同じに聞こえる、というのとは違うように思う。「アリオダンテ」では侍女ダリンダ、「アルチーナ」では主役を歌うソプラノが、次々とあちらの世界に行ってしまった。そして、「リナルド」の魔女アルミーダはなぜかその傾向が特に強く、「ちょっとお嬢さん、憑りつかれてますよ!」とでも言ってあげたくなるような状況が頻発した。当然、毎回ではないし、全員ではないが、その度に「ああまた」という気分にさせられる。

アルミーダを始め、これらの役を歌う人達は大抵ものすごく上手なので、優れた技術とともにある意味、憑依する能力も高いのかもしれない。以前、神社で舞を踊っているという女性と少し話をした際、神降ろしがどうとか言っていたのを思い出した。オペラは娯楽のためのものだが、ヘンデルの音楽にそういう状況を誘発する何かがあるのか。誰か詳しい人にいつか意見を聞いてみたい。そんな人、いないかもしれないけれど。

イル・タバーロ(外套) Il tabarro

イル・タバーロ(外套) Il tabarro

昨年の夏には、プッチーニの一幕物オペラ三部作 (“Il trittico”) のひとつ、「イル・タバーロ(外套)」で猫好きのおばさんフルゴラを歌った。三部作の中では、アリア”O mio babbino caro” (「私のお父さん」)で知られる「ジャンニ・スキッキ」が最も有名。もうひとつの「修道女アンジェリカ」は、一幕でちょい役の修道女がわんさか登場するためか、音大等で上演されることが多いように思う。

さて、このフルゴラ、勉強し始めてみると、非常に歌いやすく、自分の声にとてもよく合っていて驚いた。私の苦手な音域に触れずにぐっと下がったり、持ち上げてもらうように上がったり。そう頻繁にあることではない。同じくプッチーニのスズキも合っていたが、「蝶々夫人」でスズキを歌いたいメゾに比べ、「外套」でフルゴラを歌いたいメゾの幅はぐっと狭まるはず。そして、スズキにはアリアがないが、フルゴラのアリアは見せ所満載だ。「セビリアの理髪師」のベルタも見せ場はあるものの、一曲歌うのに2時間近く待つのに対し、これは一時間近くでスピーディーに物語が展開するので、忙しい私には大変ありがたい。何だか得した気分だった。

リハーサルが始まると、冒頭から繰り返し流れる物憂いテーマに始まり、心を揺さぶる波の音、船乗りの掛け声にセーヌ河畔の流しやお針子さんの黄色い声など、背景の音楽の美しさにこれまた感激した。ストーリーも、はしけ船の老船長ミケーレ(と言ってもまだ50歳!)が若い妻ジョルジェッタに愛されなくなったことを嘆き、妻は妻で行き場のない思いに苦しみ、と、リハーサルの度に涙が出てしまう。本当です。

船乗りタルパの妻であるフルゴラは、ガラクタ収集癖のあるおばさんで、夫と猫をこよなく愛している。やはりたったの50歳なのに、タルパとは「じいさん」、「ばあさん」と呼び合い、早く船の生活を終えて、夫と猫と小さな家で死を迎えたいと、暗い夢を語っている。

設定は1910年のパリ。この時代と場所において、50歳という年齢はどういう意味を持っていたのだろう。江戸時代なら平均寿命がそれくらいだったらしいから、「もういつどうなっても。。」というのも分かる。だが、それにしては、ミケーレはジョルジェッタの浮気相手を刺し殺すし、フルゴラも夫にマッサージしてあげたことを官能的な手つきで嬉々として語るなど、どちらも案外元気である。

録画を見ると、フルゴラはたいてい狂った老女として演じられているようだが、私にはそうは思えなかった。夫と猫を愛し、性的な興味もあるようだし、常軌を逸した言動からふと正気に戻り、深みのある発言もする。エキセントリックではあるものの、この揺れの大きさ、孤独感も含め、現代の中年女性と何ら変わらないのではないか。

2007年には、ブルックリンを拠点とするVertical Players Repertoryが廃船となったタンカーをステージにこのオペラを上演した。何というアイデア!いつか再演してくれないものか。。。